秋葉原 思いでのラジオ街
       


■ ラジオ物語(1) ■
□ 小学1年生が見た秋葉原 □


まだ電気街のことは知らぬ小学1年生。総武線ホームにあった大きな乗客用エレベータ、木の板で覆われたエスカレータの跡、ホームにある改札所から直接入ることができる秋葉原デパートはその半年前に開店したばかりだったが、そこまでが小学1年生の秋葉原だった。
   

1952年(昭和27年)、初めて眼にした総武線秋葉原駅は普通の高架線ホームよりもさらに高いところにあった。今、装いは変わってもその高さは変わることはないが、小学1年生の眼にはとりわけ高いところにある不思議な駅であった。ひとつ千葉寄りの浅草橋駅から秋葉原駅に向かう電車(総武線)の先頭車両、運転席の後ろから見る前方の線路は、秋葉原に向かってあたかもケーブルカーの線路を思わせるほど急勾配を描いて登っていた。駅は階層状に一番上に総武線、その下を直角に山手線と京浜東北線の共通路線(後にそれぞれ専用の線路になる)と貨物線が走る高架線。
市川市から飯田橋まで電車通学する小学生だった私は車窓から見る風景から次第に電車そのものに興味を引かれていった。

2006年12月31日16:00、秋葉原デパートは閉店になり55年の歴史を閉じた。数々の思いでを残して・・・。(つづく)

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秋葉原 思いでのラジオ街
       


■ ラジオ物語(2) ■
□ ラジオよりも電車が好きな少年だった □


毎日毎日電車に乗ることが電車そのものに興味をもつきっかけにもなった。昭和27,8年ごろか、鉄道開通70周年にちなんだ催しだったのか、学校最寄、飯田橋駅に掲示するとして生徒達は鉄道の絵を描かされ、私は当時の下総中山駅の風景を描いた。みんなの絵が飯田橋の駅の階段の壁にびっしりと貼られた。

まだ7、8歳の子供にとって、70年という年月は遠い遠い過去だった。見聴きする鉄道の車両、駅、車窓から眺める沿線の各駅、線路、鉄橋、沿線に見える風景の向こうには自分の知らない、いろんな世界があったのだろう、という不思議な感覚を覚えていた。なにがあったのだろう、どうなっていたのだろうという、知らない過去に想いをはせたのだった。
車窓からは、昔を想像させるいろいろなものが眼に入ったからだった。秋葉原駅ホームの端から地上まで伸びる、板で閉ざされたエスカレータの痕跡、両国・錦糸町間の線路に並行したレールのない高架鉄橋跡、亀戸駅のそばにある崩れかけたホーム跡などだった。まだ戦争の傷跡そのものがあちこちに残っていた。錦糸町駅から見えた焼け焦げた3、4階だてのビル、新小岩駅そばの鉄くずの山の中で崩れかけた大きな工場跡などなどもそうだった。
・・・・近年、書物によりこれらの沿線から見えたの遺跡「?」について、両国・錦糸町間の高架橋跡は、日本で初めての鉄道高架橋であったことなどを知ることになった。
学校は好きではなかったけれど、日々電車での出来事は発見の連続だった。総武線車内は時として千葉・東京間を行き来するかつぎ屋のおばさん達専用の呈をなした。

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秋葉原 思いでのラジオ街
       


■ ラジオ物語(3) ■
□ 京成電車で通った幼稚園 □


電車通学は、電車そのものへの興味も引かれるきっかけにもなった。そういえば1950年から51年(昭和25年から26年)にかけては幼稚園に京成電車で通園していたのだった。乗車区間は3駅。電車は2両編成か3両編成。時に1両だけのこともあり、その時はさすがに満員になっていた。焦げ茶色の車両だったが、時に、ウス緑と緑に塗り分けられた車両もあったが塗色変更の過渡期だったのだろうか。退園時、最寄りの菅野駅で電車を待つ我々園児たちは、ひとつ向こうの京成真間駅方向のカーブから現れる電車が、ウス緑と緑色に塗り分けられていることを知ると「わーい! サクラ号!サクラ号!」と飛び上がってよろこんだものだった。
その色の電車がなぜ「サクラ号」かわからなかった。「サクラ号」という名称の電車はその後登場しなかった。
車掌さんは、乗務員室ではなく、乗客と一緒に後部のドアのところに立ってドアスイッチを操作していた。

と、いうわけで人生の中で電車との関わりは長い。(つづく)

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■ ラジオ物語 (4)■
□ 小学生の見た秋葉原 □


小学3年生ころ?学校帰りに途中下車。道草したのが秋葉原近くの交通博物館。すぐとなりに「ラジオガアデン」があった。

  
秋葉原ラジオ街の存在を知ることになったのはだいぶ後になり、1955年、昭和30年の頃(小学3年生)だった。同じ小学校に通う上級生の幼友達に連れられて行ったことがきっかけだった。その時は電気街が目的ではなく、万世橋たもとにある「交通博物館」へ行くのが目的だった。学校の帰り、国電(当時)総武線秋葉原のひとつ隣、御茶ノ水駅で下車、聖橋(ひじりばし)側に出て、坂道を降りていく。さらに中央線の煉瓦アーチ高架線にそって進むと、金網の向こうに古い蒸気機関車や、アメリカ大陸風の蒸気機関車が見えてくる。そこが交通博物館だった(博物館は06年閉鎖され、埼玉県に移転となった)。そして、そこが私にとっての秋葉原電気街への入り口でもあったのだった。交通博物館の出入り口は中央線のガードのすぐ下に沿っていた。そのガードの下にあの「ラジオガアデン」はあった。
博物館の入場料は子供10円だったと記憶する。
今では秋葉原のはずれといった感があるこの地域に、かつては東京駅然とした煉瓦造りの豪奢な万世橋駅があり、明治・大正時代には東京の中心となる一大繁華街であったとは・・・。興味を惹かれ最近、秋葉原地域近代史を研究し始めた。
初めて秋葉原、不思議な世界への第一歩秋葉原街への旅はまだまだ続く・・・(つづく)

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■ ラジオ物語(5) ■
□ 小学生5年生の「初めての買い物」 □


意味のわからぬ電解コンデンサ。パーツ店のお兄さんはとても親切だったけれど。あの頃も、そして50年後の今も電解コンデンサを探して秋葉原をめぐる因縁とは?
    

1955から56年、小学4年生は鉱石ラジオ作りで終わった。5年生になり真空管ラジオとして並3ラジオを初めて作った。真空管はもちろんST管(6C6、6ZP1、12F)。穴あきシャーシ、バリコン、並4トランス、並4コイル、豆コン。どの部品もそれぞれがはじめて自分で買い、その後、その部品を繰り返し繰り返し、いろんな組立てに使うことになった、思いでの部品だ。
一人、秋葉原のパーツ店へ。初歩のラジオだったか、電波技術だったか? 雑誌に掲載されている並3ラジオの記事をもとに購入部品の表を作っていた。
部品を買いに行くときに、うかつにも雑誌の部品表を写した紙切れを忘れた。手元には並4コイルの説明書が。鉱石ラジオを作ったときの並4コイルに添付されていたものだった。そこには、鉱石ラジオ、並3ラジオ、並4ラジオの回路や実体図が印刷されていた。
並3ラジオぐらいなら、回路や部品に変わりはないのだが、わけ分からぬ小学生にとっては不安だった。しかし、そのために家に引き返すわけにもいかず、やむなく「コイルの説明書に記載されているの並3の部品表」をたよりに部品を買うことにした。
小学生がうろうろ部品街をまわり、シャーシ、バリコン、電源トランス、電源スイッチ(ぐるぐる回転してオン、オフを繰り返す)、ターミナル、ソケット、シールドケース、、、。と買っていく。
抵抗、コンデンサのところで、はた、といきづまった。電源部の電解コンデンサがわからない。ずらっとならぶ抵抗、コンデンサの前で首だけ出して、目先が定まらない眼がねのこどもを見て、店のおにいさんが、「ボウや、なに作るんだい?と聞いてきた。「ナミサンラジオ・・・」と不安げに答えると、「そろえてやるから。。。」と、私が持っていた並4コイルの部品表をとった。
その時、電解コンデンサのことが分からずにいたのだが。当時のラジオ用の電解コンデンサには、回路中のお決まりの電解コンデンサ(平滑回路や、段間のバイパス、電力増幅管のカソード用など一式がひとつのケースに収まり、それが色分けしたリード線で出ているものがあった。
しかし、そんなものは、見ていた雑誌の並3ラジオの作りかたには載っていなかった。店のお兄さんは、親切?に、それなら1個で電解コンデンサの用が足りるということだったのだろうが、、、。「線の色とコンデンサの値を書いておいてあげるから」と、おそらくそういう意味のことを言ったのだろうと思うが、その時は何がどうなっているのか分からず、鉛筆で、赤は○○、青は××、黄色は▲▲でいいから・・・などと、言って書いた紙を渡してくれた。わけの分からぬままに、それを受け取って、買った。
(その時のお兄さんの親切はあとで組み立てるときまったく役にたたなかった。平滑回路以外のコンデンサのリード線は意味がわからず、根元からニッパでぶっつりと切ってしまったのだ)
ところで、2006年のいま、真空管用に使える耐圧の電解コンデンサは店先に少なくなり、価格も高い。たまに、お!これはお買い得!と目をつけて在庫を聞くと、ここにあるだけ、、。というのが決まった返事。とりあえずあるだけ買って、後日また行ってみるとおんなじ値段で同じものが出てたりする。
もっとも、400から1000μFの200Vから250V程度のものだが。
初めての並3ラジオ、部品の購入の秋葉街の旅はまだまだ続く・・・(つづく)

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■ ラジオ物語(6) ■
□ 嗚呼、ラジオガアデン □


「ラジオガアデン」は今・・・。

  
前出のごとく、ラジオ街の存在を知ることになったラジオガアデンとの出会い。交通博物館の隣にあったラジオガアデン。国電(当時)のガード下に中でつながっている二つの通路の両脇に数軒のパーツ店が並んでいた。ここに頻繁に出入りするようになったのは、小学6年から中学1年にかけて、送信機を作りはじめた頃からだったが、特に興味をもったのはジャンク店。米軍の送信機、BC−610に使われていたVFOコイルボックス(通称べんとう箱)が山と詰まれていた。ちょうど薄型の弁当箱のような形で、ミゼットバリコンやコイルががっちりと付けられていた。当時はやった50メガの超再生式のトランシーバのケースにぴったりだった。私はまだそんな技術もなく、ミゼットバリコン、平型の電鍵、各種の水晶発振子をわずかな小遣いで買うくらいだった。ミゼットバリコンは米国のインチ規格のため、日本のつまみが入らず、軸をやすりで磨いてつまみを付けた。
05年12月のある日、ここを訪れると二つの通路は縄を張って閉ざされ、道路に面した1店のみが隣の交通博物館来館者向けと思われる品々を商っているのみだった。閉ざされた通路を照らす暗い蛍光灯がさびしげだった。つい1年くらい前までここにある店でベーク板を買っており、ここに入ると小学生時代にタイムスリップし、胸が熱くなるのだったが・・・・・。

その後、・・・・・06年某日、べーク板、アクリル素材を商う、例のお店は営業しており、短波ラジオのコイルを巻くためのボビンを、ここで買うことができた。店の主人とは、少し大きめな声で話す必要があったが、全国からの通信販売にも応じているとのこと。営業が続くことを願っている。
向かい側にも過去からタイムスリップしたような例のお店も1件店を開いていた。ただ奧でつながっている通路は完全に閉じられている。
小学生にとって不思議な世界への第一歩だった秋葉原街は、今大きく変わりつつある・・・(つづく)

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■ ラジオ物語(7) ■
□ ラジオデパートの2階で □


ラジオ少年の相手をしてくれたあのおじさん

  
昭和32年(1957年)小学6年生、ラジオ工作もだいぶ自信がついてきたころ。学校の帰りに電気街をふらつことも多くなった。ひとつには同級生のM君の親戚の叔父さんとやらが秋葉原に店を開いており、そのM君といっしょに遊びに行ったりしていたことにもよる。M君の叔父さんは、国電ガード前のラジオデパートの2階に店を開いていた。もちろん木造2階建てだった頃のラジオデパートで、現在のエスカレータ付きのビルではない。2階のその「叔父さんの店」は、店というより細かく仕切ったブースのひとつで、「店頭」に商品らしき物はなく、工具や部品、測定機類を並べた、工作室の雰囲気だった。子供の自分には意味がわからなかったが、今思えば卸業か単品のラジオ組立や修理を行っていたのではなかったか?
そこで、そのおじさんと同級生のM君とでラジオの話をすることが楽しみだった。抵抗値をテスターで測ったり、並3ラジオの真空管の役目は何?のようなクイズ・・・「6C6は?」 「検波!」、「6ZP1は?」 「電力増幅!」、「12Fは?」「整流!」、、などと。あたらしいことを知るのが楽しくて仕方ない時代だった。
しかしいつともなく、その「店」には足をむけなくなった。
今、思う。あれは、おじさんではなく、「おにいさん」であったのだろう。「あの当時の雰囲気のお店」、「あの当時の雰囲気のおにいさん」が今のラジオデパートにいくらか残っている、と。

写真は小学6年生の私。電池管の4球スーパーを作り、木製絵の具箱をケースにするためにスピーカの穴をハンドドリルで開けていることろ。高価な67.5Vの積層電池の代わりに充電器を使ったが、フィラメント用は1.5V単一乾電池で、すぐに消耗してしまうのだった。考えてみたら、そのときの木箱が現在のしょうなんラジオ定番、「木製キャビネット」のルーツなのかもしれない。

当時、木造のラジオデパートの階段を2階に上がったところには、小さい机と椅子。やかんと湯のみがおいてある休憩所だったような・・・。(つづく)

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■ ラジオ物語(8) ■
□ 電話級・電信級誕生直前 □


短波送信機の製作に取り組む

  
昭和32年(1957年)小学卒業直前の6年生3学期、「近いうちにアマチュア無線技士の資格に初級(電信級、電話級)が誕生するらしい、」という話を幼なじみのラジオ好き先輩から聞いていた。その頃、雑誌「ラジオの製作」に初級アマチュア無線用の送信機の回路集が掲載されたことがあった。 そこで私が興味を引かれたのは、終段に6ZP1を使った送信機。全体構成は忘れてしまったが、多分2ステージで水晶発振、変調はハイシング変調であったと思う。それまで、スーパーラジオの局発部分を抜き出したような6WC5のワイヤレスマイクでやっていた無線ごっこの熱は、さらにアマチュア無線へと高まっていた。部品も並四ラジオとあまり変わらない。マイクも、ワイヤレスマイクのものが使える。送信機らしいものといえば、水晶発振子とミゼットバリコン。コイルはボビンにエナメル線で巻けば良い。
ここで、上でも触れた、あのラジオガアデンが絶好の部品調達の場となった。もっともそこのジャンク店にアマチュア無線用周波数に合った7メガ、3.5メガの水晶があるわけはなく、最初に入手したFT−243型の水晶は、「7.4MC」だったが。
初級の試験内容もわからず、試験準備をするでもなく、ひたすらハードの製作に情熱をそそいでいた小学6年生だった。7.4メガの送信機は、6WC5のワイヤレスマイクに代わって友達との無線ごっこに使われた。そしてそのまま中学生に。・・・(つづく)

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■ ラジオ物語(9) ■
□ アマチュア無線の街でもあった秋葉原 □


アマチュア無線機器専門店が増えてきた

  
1959年(昭和34年)電話級、電信級アマチュア無線技士が続々誕生する中で、アマチュア無線は、まさに「趣味の王様」の感があった。私は初回の試験に失敗、無線浪人の身ながら時代の先端を行く趣味の世界を歩んでいることがうれしかった。秋葉原のジャンク店にも次第にアマチュア無線機器展示販売が広がった。しかし、中学生にはメーカー製の機器にはとても手がでず、そうした無線機類を見て歩き回るだけ。自作するしか道がなかった。
その中で、であったのが、トヨムラの送信機、SMT−1だったのだ。1960年(昭和35年)、アマチュア無線開局時点では、換骨奪胎・ばらしては組みなおすことを繰り返したあとだったが開局申請のベースとなった送信機だ。
そうした意味で各種販売店中、トヨムラのアマチュア無線に関わる思い出は深い。
写真はかなり時代が下るが昭和46年(1971年)ごろの秋葉原のトヨムラ店頭路上での同社の「トヨムラ・ジャンク市」。青果市場のトタン張りの建物沿いのこの地点から正面に見える国電(当時、現JR)ガード下の喫茶店は今でも健在でラジオファンが集う・・・ (つづく)

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■ ラジオ物語(10) ■
□ アマチュア無線開局 □


JARLは木造2階の民家風だった

  
ようやく1960年(昭和35年)4月の電話級国家試験に合格し、アマチュア無線局、JA1GMOとして電波を発射したのはその年の暮れの12月だった。
第1回の電話級国試に合格し、開局申請した幼友達のKちゃんは電波監理局に直接開局申請を出した結果、予備免許が降り、コールサインの指定も受けたものの、その後の工事落成届け、試験電波発射届け、開局検査などの手続きをすることになり、とても面倒なようだった。
なので、JARLの保証認定制度が実施されたのはうれしかった。しかし申請書類を仕上げるのが大変だった。「電波世界」という月刊誌にアマチュア無線局開局申請書類一式が綴じ込み付録についていた。縦書きb5判の用紙が三つ折りでぎっしりと綴じ込みになっていた。

保証認定を受けるために 当時水道橋から都電に乗って駕町(かごまち)にあったJARLまで出かけた。普通の民家のような木造2階建て、一階にカウンタのようなものがあった。ようやく仕上げた申請書類は、正、副2通が必要だが、副のほうに添付すべき送信機系統図、受信機系統図、アンテナ、無線局周辺の地図を付けていなかったので、JARLの土間の小さなテーブルで正と同じものを書くことになった。

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■ ラジオ物語(11) ■
□ アマチュア無線開局 □


家の回りはアマチュア局超過密地域

  
待望のアマチュア無線局免許を得て、大手を振って? 交信ができるようになったものの、ほとんど調整もしていないアンテナで十分な交信が出来るわけがない。毎晩、交信相手は近所のおなじみの局ばかり。なにしろ、自宅から半径300メートルの円を描けば、JA1IE、JA1BLH、JA1BOL、JA1DSH、JA1EAP(予備免許、後にJA1KUF)、JA1FCQ、JA1FBT、があるので、開局から半年ぐらいの交信はもっぱら近所(100メートル四方)の局が大部分でした。

もっとも自分が電波を出すようになった昭和35年ごろには、JA1IE、JA1BLH、BOL等のOMの信号は聴くことはなかったが、その後も半径200メートル以内にさらに3局が開局しアマチュア無線超過密地帯は変わらなかった。
写真は開局5、6年後? のシャック。自作機による電信の交信が中心になっていた。いつもはんだごてが通電していて机上は混乱。今と同じく、「整頓」の張り紙をしている。(つづく)

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