必要から考案した抵抗カラーコード読み取り装置
       


カラーコード円盤■ 変わりだね工作物語(1) ■
□ボール紙を切っているうちにひらめいた! □


これは昭和44年(1969年)に考案し、その年ラジオの製作誌に掲載された抵抗カラーコード読みとり器だ。当時、半導体と共に部品の小型化がすすみ、カラーコード表示の抵抗が多くなってきた。
黒=0、茶=2、赤=3・・・など、カラー対数字を対比できても2桁目、3桁目を含めて実際の抵抗値として読みとるのが面倒。製作前にテスターでまとめて抵抗値測っておくなどしていたが、簡単に分かるものができないか、と考えた末考案したのがこれだ。
ラジオの製作編集部にいた時のことだ。
この作品はすぐに採用されてラジオ誌の折り込みとして掲載された。B5判の厚紙に大中小の三つのカラー円盤が印刷され、読者はそれを切り抜き、中央をネジ止めするという仕組みだ。ハトメなどというきのきいたものは無かった。編集部上司のS氏が営業部に提案した結果、外側の円盤の裏側に抵抗器を主力とした某部品メーカーの広告が付いた。
切り抜いて組み立てると大円盤の裏側がそのまま丸い広告なのだった。
以来、何度となくそのラジオ雑誌や同別冊に掲載されているが、初掲載の10年後、1979年の創刊300号記念付録としても掲載されていることを後に知った。なお、1997年3月号にも掲載されているが、そのときはうれしいことに(by JA1GMO)と私のコールサインが記載されている。私は今だに自分の作った円盤のお世話になっている。これにたよっているので直読できるようにならないのだが・・・・。
ちなみに2008年6月発刊になった 電子工作マガジンにも掲載されている。いずれにせよ私の作品が長期にわたりお役に立っていることは嬉しい。

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「IFT」を自作した
       


■かわりだね工作物語 ■
□レトラジを3球スーパーに改造  □


真空管ラジオの製作で困るのは部品の入手だ。秋葉原のお店を巡れば中古品を入手できるが、目の玉が飛び出るほどの価格だったりする。なかでも高価なのがIFTだった。家の押し入れの中をさがせば、ひと組ぐらいはあるかもしれないが、そのラジオを何台も作りたい場合はだめだ。ケースの横にコア調整穴が開いている中国?製のがあるが、これも高価。それなら、自作できないだろうか、と考えてIFTを自作した。

IFTの試作は4球高一ラジオのシャーシを利用してスーパーラジオを作れないか、と考えたことから始まった。あるところからコア付きボビンが入手できそうだったが、コイルは手巻きでハニカム巻きにできないのであっさりあきらめ。ハニカム巻きのチョークコイルを縦に並べて結合させた。というわけで、当然C同調式になる。そのためのトリマコンデンサ、も用意する。さらに並列に何個がコンデンサをかます。ベース部分の形状を整えるのにベーク板やラグ端子を使う。こんな風にして無手勝流で二つのIFTを作って、3球スーパーを完成。しかし、そのままだと、一応放送は聞こえるが、、、というレベル。なかなかトラッキングもうまくいかない。
それもシールドケースも真ちゅう板を切って曲げて、ハンダでつないで、それらしい形にしたが。試作はそこまでだった。現在は押し入れにあった昔のIFTに付け替えることで聴いている。

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床が、壁が揺らぐ? 重低音
       


■かわりだね工作物語 ■
□重低音再生スーパウーファーアンプ  □


2007年夏に製作した重低音システム。普段聴いていた6BM8のアンプの低音を増強する効果を発揮。CRのパッシブフィルタで高域を抑えて、力部で左右信号を合成したのち、モノラルアンプで低域のみを増幅。アンプには入力部にLM386、スピーカ駆動部はLM3886を使用。製作セットの内部が見えるように天板に透明アクリルを使用。
低音専用スピーカとしてはバスレフタイプのボックスを作り、ユニットに20センチウーファーのフォステクスFW208Nを下向きに取り付けたバスレフタイプとしました。
パッシブフィルタの前には、はじめ386は付いていませんでしたが、メインのアンプを6BM8アンプから、別のゲインの高いICアンプに替えてみたらゲイン不足を感じたので、後からフロントアンプと称して追加してしまった。その結果は重低音の大爆発。正しいオーディオ家からは眉をひそめられそうな気もするが、時々思いっきりおなかに響く振動を楽しんでいる。作品の製作内容は「新スピーカの完全自作2」(電波新聞社2007年10月発行)に「最新・重低音システム、3Dバズーカ」のタイトルで掲載させていただいた。

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のどかな同時通話トランシーバ
       


■かわりだね工作物語(2) ■
□製作記事のために製作したトランシーバ  □


昭和45年(1970年)、ラジオ雑誌(R・S)編集者時代に製作記事用に製作したのが、「同時通話式トランシーバ」。同年8月号のR・S誌に掲載になった。さすがに筆名はペンネームとしたが、コールサインだけは、JA1GMOを記載させてもらった。ベースにはそれまでの自分がやって来た工作があった。高校の修学旅行(九州一周)に似たようなばかでかい、重たい、乾電池式真空管トランシーバ(ファイナルは3A5で7メガの電信用)を持って行き1局とも交信できずに帰って来た、という苦い体験へのリベンジでもあった。
これは短波ラジオにAM送信機をつけたもので、当時アマチュアの間でよく行われていた7メガで送信、3.5メガで受信(相手局はこの逆)で行う同時通話用だ。送信部は、あのSMT−1の回路をほぼそのまま使っている。電話器のハンドセットに使われているカーボンマイクがぴったり適合した。
アルミシャーシをちょうつがいでトランク式に組立て、片側に6BQ5の送信部、もう一方にシングルスーパの受信部を組み込んだ。AC電源だからモービルにはならないが、さすがにこれは実用になった。一時はハム仲間とのお喋りにも活用した。
この作品はその後、改造SMT−1等とともに長らく物置に放置し、半ば朽ち果てかけていたのを引っ張りだしてバラし、部品単体にもどした。ケースにした二つのアルミシャーシは、寸法をきりつめたりしながら、ラジオキットの試作で大いに役立った。

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無手勝流「水冷式?」送信機
       


■ 変わりだね工作物語(3) ■
□プレートは赤く染まらなかった  □


これは現在、オーディオアンプに使っている6Y6Gだが、ほぼ同じ外観をしている6本足(UZ)のST管「42」は昭和40年ごろラジオ用にとても身近な真空管だった。プレート損失3〜4Wでアマチュア無線の小型送信機にも使われていた。
現物はもちろん残っていないが追憶の彼方の送信機の一つがこの「42」を4本並列にした水冷式送信機だった。例によって無手勝流の水冷式で、シャーシに「42」を4本並べ、シャーシ内部に回路を組み、そのシャーシをひっくり返して水を張った金魚鉢にかぶせたのだ。シャーシが上からみて長方形の金魚鉢より縦横ともわずか大きく、ちょこんと乗せることができたのだった。
807送信機のプレートを赤くする状態で使っていた電源をそのままつなぐ。ドライブを掛けてキャリアを最大に出す。逆さまになった42はガラス部分だけが水につかり、ベース部分は水の上。ダミー電球は輝くが、金魚ばちの水を通して見る42のプレートは全く変化ない。この水冷機は実際には交信に使うことはなかったが。500ボルトを掛けたが出力は数10ワット以上は出ていたのではないか。学生だった昭和39年ごろのことで交信時はハンダゴテに通電していて、毎日のように送信機の回路や終段増幅管が変わっていた。無線機を自作しその性能を交信によって確かめるということが私のアマチュア無線の目的だったような気がする。


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植木鉢送信機
       


■ 変わりだね工作物語(4) ■
□ 超立体配線の、見て楽しめる送信機 □


植木鉢の形をした50メガのAM送信機。1980年以前の製作。今現在手元にある数少ない作品だが製作時の光沢はなく赤くさびきっている。鉢は一度割れて交換したので新しくなっている。二股のスズめっき線の茎にブリキの葉っぱとブリキの花びら。葉っぱは、段間のシールドの役目も持たせた。花がついている茎が送信機部、もう一本の茎が変調機部。二股の分岐部にあるの変調トランスだ。送信部は2SC945の水晶発振、ファイナルは2SC1507、変調部はLM380Nで、出力は0.5ワット。花の中央、花弁に当たる部分にLEDがあり、送信時に点灯する。
回路は当時、月刊誌「ラジオの製作」に掲載されたJH1FCZ大久保氏のAM送信機「RS−501」をそのまま使わせていただいた。出力は0.5ワットくらいで、この植木鉢送信機は当時、ローカル局とのラグチューに使っていた。製作したのが正月の頃だったのでこれはR・S誌に「新年初笑い製作=送信木」として掲載になった。


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フライトシミュレータのコックピット
       


■ 変わりだね工作物語(5) ■
□ バーチャル飛行コックピット □


パソコン黎明期にはボードマイコンTK80にベーシックボードとメモリボードを追加して、宇宙を駆け回る「スタートレック」ゲームにはまり、毎晩画面の上で宇宙を飛び回っていた。その後、16ビットPCのDOS上でのMSフライトシミュレータに目覚め、操縦するのはセスナ機になった。Win95の登場とともにウインドウバージョンにアップしたものの、486DX66MHzのPCでは著しくスムーズさを欠くことになり、結局DOSバージョンのまま楽しむ羽目に。操縦桿として「バーチャルパイロットプロ」というハンドル型のヨークを使うのだが、DOS版では操作可能なのは上下、左右への操舵とブレーキ操作だけ。そこでスロットル操作をはじめとして各種操作を専用スイッチやレバー(シーメンスキー)で操作してしまおう、ということでキーボードから直接線を引き出したのがこのコックピットだった。1997年ごろの作品。
これでエンジンの始動からキア(脚)の上げ下げ入れ、各メータの切替などと四方のビュー操作が手もとでできるようになった。自宅の近くにある下総飛行場から日本各地へ飛びまわったのだった。


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