あれは46年前。痛恨の陸前高田       


■ 2011年3月11日 ■
□ 巨大地震がきた □


  
妻と二人、スーパーでの買い物から戻り、熱いお茶を入れ、すこし遅くなってしまった昼食に手をつけようとした途端、テレビがチャイムの警告と共に緊急地震警報を報じ始めた。画面には東北地方の地図が赤く震源地域として示されている。  「震源から離れているし、そんなに揺れないな・・・」と思いつつ一口ほおばると、ゆさゆさ横揺れがはじまった。

「来た。でも震源は遠いから大丈夫」隣で箸を握ったまま画面を見つめている妻に言いながら、二口めにとりかかろうとした途端、部屋中が大きな音を出しながら激しく揺れだした。  「ワッ、来たっ! 早く! 早くっ!」と、妻。 私も一口めをもぐもぐしながらも箸を放りだし、二階に走ろうとする。が、、、。体が左右に揺さぶられまっすぐ進めない。台所のテレビが、続いてFAX電話が床に落ちる。

 食器棚のガラス越しに食器類が、がちゃがちゃとけたたましくはね回るのが見えるが、どうすることもできず妻を追ってようやく二階に駈け上った。揺れは収まるどころか、更に激しく続く。かつて体験したことのない激しく長い揺れは築三十年の家を揺さぶり続ける。さらに数分後、同じような揺れが襲ってきた。

2011年3月11日午後2時46分。東日本大震災の始まりだった。机やベッドが30センチ近く動き、部屋中に物が散乱したが、幸い建物に重大な被害はなかった。


 その後、新聞やテレビで地震と津波で壊滅した太平洋沿岸の町々の姿が繰り返し報道されるたびに、私の脳裏には46年前の「三陸海岸、岩手県陸前高田での痛恨の出来事」がよみがえってくる。

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痛恨の陸前高田(2)
       


■ 1968年 4月■
□ 社会人1年生の日々 □


 大学時代を無線機の組み立やアマチュア無線三昧で過ごした私は昭和43年(1968年)の春、東京のある「新聞社」就職した。新聞社といっても電気関連の業界紙で、大手新聞社の配送ルートに乗って全国戸別配達されている日刊紙だった。入社後、自分が子供のころ読んでいた某ラジオ雑誌もその社の発行であることを知った。

 それなら、そのラジオ雑誌の編集がやりたい思ったが配属されたのは販売部だった。新入社員の私は先輩の指導のもと首都圏内の電器店を対象にD新聞の購読契約の営業に歩くことになる。洗剤こそ持っていないが、ありていに言えば新聞拡張員だ。契約はそう簡単に取れるものではない。急がしそうに「いらない」の一言で断られるつらい日々。いつか、ラジオ雑誌の編集に配属されること願いつつ、靴のかかとをすり減らして歩いていた。

 そのような入社直後のある日、拡販の旅に出ることになった。各地に旅をし、新聞の購読契約をとって歩く「重点拡販」なのだ。  その年は仙台支局を軸として東北の岩手、山形、秋田の三県を2回に渡り巡ったのだが、1回目は盛岡で「ちゃぐちゃぐ馬子」の祭りが行われていたので、たぶん6月頃。2回目はあの暑さから考えると8月頃だったのだろう。

 出先拠点を山形、盛岡、秋田などの大きな都市の旅館におき、そこから各自割り当てられた地域の一人旅になる。「男はつらいよ」の寅さんみたいだ。  今、地図を見ながら記憶をたどると、そのとき私が歩いた地域は秋田、大曲、天童、寒河江、宮古、釜石、花巻、一関、陸前高田、大船渡であった。

遠い昔、それぞれの地で体験した数々の出来事は、新米社会人の忘れ得ぬ、強い思い出として記憶のアルバムにしまわれている。  その中でも「陸前高田」での体験は、とりわけ印象深く、報道で繰り返される壊滅状態の町の姿、奇跡の一本松のエピソードに接するたびに、『陸前高田での、40数年前のあの時の出来事』が、鮮明に思い出されてしまうのだ。

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痛恨の陸前高田(3)
      


■ 1968年 6月 某日午前 ■
□ 陸前高田駅に降り立つ □


 一関から一泊二日の日程で陸前高田、大船渡への拡販の一人旅がはじまった。内陸部の東北本線一関駅から東へ、太平洋側の大船渡に至るのが大船渡線だ。  朝一番に列車で一関を発ち、陸前高田の駅に着いたのは昼にはまだ時間のある頃だったのだろう。残念ながら降り立った駅前の風景は記憶にない。

 地方での仕事は、まず地元の新聞販売所と呼ばれる新聞店への顔出しから始まる。めざすA新聞販売所は駅から歩いて10分ぐらいのところだったような気がする。  店のガラス戸を鏡にしてネクタイを締め直す。 がらがらと引き戸を開け、作業場の土間で案内を問うと中年の店主と奥さんが顔をそろえて出てきた。  身分を名乗り訪問の目的を告げる。慣れない私の口ぶりに、夫婦は私の顔をのぞき込むように問うてくる。  「・・・新入社員だね?」 「はいよろしく」 「この春卒業だね?」 「そうですけれど・・・」 「大学は? 」 「C大学ですが・・・」 「ご出身は?」 「千葉県です。どうぞよろしく・・・」

およそこんな問答があった後、私は先輩から指導されたとおり、購読契約の見込みのありそうな当地域の主要電器商について問うと、主人は無表情に、紙切れにフェルトペンで市内の七、八軒の電器商の名前と簡単な地図を描くと、「ともかく回ってきなさい」と私に差し出した。

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痛恨の陸前高田(4)
      


■ 1968年 6月 某日昼 ■
□ 陸前高田でのセールスは大成功 ?? □


一方の手に地図の紙切れ、もう一方の手に見本紙が詰まった重い営業カバンをぶらさげて表に出た。あたりは人通りもあまりなく、静かな町だった。地図上に示された電器商の印を目安に歩きはじめる。メモには漁船用の無線機部品などを商う店もあり興味をそそった。

 地図をたよりに行くと、向こうに一軒目の電器店の看板が見えてきた。  店に入り「東京のD新聞社から参りました」と型どおり来訪の目的を告げる。机に向かってハンダゴテでラジオ修理していた無精ひげの店主が顔を上げた。こちらを見て「ああ、ごくろうさま」と言いながらすぐに購読の契約をしてくれた。

驚きだった。セールスはまず断られた時から始まるんだ! と先輩から教えられ、そのとおり東京で、さんざん断り文句を浴びてきた新人にとっては。

 「ええっ・・・? あっっ、ありがとうございますぅ!」 ・・・・東京からやって来て「ごくろうさん」ということなのだろうか??  意外な展開ながら、契約をいただいたという安堵の気持ちでその電器店を出た。  次の電器店を探しながら歩き始める。平坦な道路はやがて緩やかな登り坂になった。二軒目があった。「はい、読みますよ。」差し出した申し込み用紙に店の店判を勢いよくポンと押してくれた。

 また契約がとれてしまった・・・・。  その後も、訪問するどの電器店でも、東京周辺ではおなじみの「忙しいから読んでいられない」とか、「そんなの読んでも商売に関係ない」とか「高い」、などの断り文句が一切無い。

 それどころか、その地図上の電器店のすべてが、まるで待ちかまえていたみたいに歓迎してくれ、D新聞の購読契約をしてくれたのだった。

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痛恨の陸前高田(5)
      


■ 1968年 6月 某日午後 ■
□ 思わぬ成果に意気揚々 □


 2、3時間後、思わぬ大成果に意気揚々と新聞販売店に戻った私は、 「地図の店、全部で契約がとれました。」と、抑えつつもやや得意げに、各店で店判を貰った数枚の契約書を新聞店の主人の前に差し出した。

 主人と奥さんは、 「そうですか。それはよかったね。」と、出かける時とはうってかわった満面の笑みで私を迎えてくれた。  配達の手続きなど申し込みの手配を終え、お茶をいただく。

主人は笑顔で話しをこう続けた。  「実はねえ・・・・・」、「私達の倅もあなたと同じでなんですよ。」 それを受けて、奥さん  「今年、あなたと同じC大学を卒業したんですよ」。「それで、東京で就職して、働き始めたんですよ」  と、さっきまで秘密にしていたことをうれしそうに打ち明けるといった風なのだ。

 同じ年の卒業生といっても、どれだけいたことか・・・。しかしこの両親は今年、同じ大学を卒業し、同じ東京で、社会人一年生のスタートを切った息子の姿を私に重ねて思い浮かべているのだと思った。  「それは奇遇ですね」(そんな言葉を言ったかはさだかではないが?)ともかく、話しは弾んだ。

しばらくして私は新聞販売店夫婦の元を辞した。そして午後遅くの列車で当日の最終目的地、大船渡をめざして陸前高田を後にしたのだった。予想外の販売成果を得たという満足感にひたりながら。

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痛恨の陸前高田(6)
       


■ 2014年3月10日 ■
□あれからのこと □



 ところで・・・、 あの、陸前高田での信じられない「全戦全勝」というセールス成果は、 新聞販売店夫婦の私への贈り物だったのだ! と気づいたのは、なさけなくも、それから数年も経て、ラジオ雑誌編集者としての日々を過ごしている頃のことだった。

 なにかの拍子にあのときの記憶をたどっている最中、「あれ? 」「ひょっとすると・・・!」と。  そしてそれはすぐ確信となる。あの時、あの夫婦は、出発した私が各電器店に到着する前に、それぞれの店に電話するなど、なんらかの手を打ってくれていたに違いない、と。

そして今。今日は2014年3月10日。あれから46年が、そしてあの震災津波災害からまる3年の時が過ぎた。朝からテレビではあの時の惨状とその後進まぬ復興事業の現状が繰り返し報道されている。

 さっきNHKの朝の番組でも震災3年目として陸前高田の様子が放映されていた。私には40数年前の陸前高田の、あの新聞販売所土間での情景がよみがえる。

 あの新聞販売所の夫婦は、私を彼らの息子の姿に重ねて見てくれた。そして私は、自分の新聞セールスの成果が、二人が私に与えてくれた好意の結果だったとも気づかず、得意げに購読契約書を差し出した。

 そんな私に対し、「よかったよかった」と、笑顔でそれを受け取ってくれたあの夫婦の心遣い、東北の人々の人情に、私は涙を抑えることができない。 

 そして思う。二人は震災時ご健在であればかなりのご高齢だったはず。ご無事だったのだろうか? と。 ・・・・痛恨の陸前高田。 2014年3月10日   M.T

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